昭和47年春、矢野浩介は地元の中学では非常に優秀な生徒で、その地域で有名な進学校であるKT高校に合格した。
「矢野君、KT高校はとても立派な学校だよ。頑張りなさい」
卒業を前に校長室に呼ばれ、校長先生から直々に励まされ、4月、大きな希望を持って高校の入学式に臨んだ。
周りを見ると、確かに頭のよさそうな奴ばかりだった。そして、最初の授業で、いきなり強烈な洗礼を受けていた。
「君たち、自分は頭がいいと思っているんじゃないか?」
学年主任の先生はそう言って、生徒一人一人の顔を見ると、「“十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人”と言うけれど、君たちは今日から〝ただの人〟だよ」とカラカラと笑っていた。
その言葉の通り、授業は厳しく、予習、復習をしないとついていけない毎日で、最初の1ケ月、浩介は辛くて仕方がなかった。そんな中、唯一楽しいと思えたのが古文の授業だった。
「次は矢野浩介君、読んで訳して下さい」
先生の名前は「山口弥生」。紺のスーツに銀縁のメガネ。甘えを許さないような顔。同じ中学を卒業した先輩から、「厳しいったらありゃしない。〝冷血な媼(おうな)〟だ」と教えられていた。
その言葉通り、浩介の前に指された渡辺(わたなべ)健一(けんいち)は学区内の中学では「あれが渡辺だ」と囁かれるほどに有名で優秀な奴だったが、「あなた、勉強してきたの?」とこてんぱんに叱られてしまった。だから、名前を呼ばれた時、正直、浩介は「あっ、今度は僕かよ。嫌だなあ」と思った。
しかし、読んで訳し終えると、「頑張っているのね。いいわよ」と意外にもお褒めの言葉を頂いた。
渡辺健一が叱られた時はシーンとなっていた教室内が、ほっとした空気に変わったことを、隣に座っていた浅野(あさの)洋子(ようこ)が教えてくれた。
「矢野君、ありがとう。私もビクビクしていたのよ。山口先生があんなにニッコリするから、みんな、ほっとしたって。これで〝冷血な媼〟のお相手は決まったわ。よろしくね」
数学、英語等は誰もが一生懸命に予習、復習をするが、古文の予習、復習などする者は「あいつ、変わってるぜ」とからかわれてしまう。だが、浩介だけは、「おい、ちゃんと予習しておけよ」とみんなから言われるので、古文は手を抜けなくなる。
〝冷血な媼〟山口弥生も「矢野君は頑張り屋さんね」と特別に目を掛けてくれるようになった。
こういう話は教員間でも共有されるもので、「矢野君は勉強熱心な生徒だ」と褒められることが多くなっていた。
実は、山口弥生先生は「触らぬ神に祟りなし」と職員室でも近寄り難い存在だった。
下手な冗談でも言おうものなら、言葉には出さないが顔には「バカね」と表れ、席を立ってしまうことがあり、同じ教師同士でも気を遣う、そんな感じだった。
山口弥生は生徒が〝冷血な媼〟と呼んでいることも、他の教師も煙たがっていることも知っていた。しかし、教師である以上、生徒の能力を伸ばすため厳しくしなければいけない、職員室でもそうあるべきだと考えていたので、仕方がないと割り切っていた。
年齢は39歳、勿論、結婚しており、子供もいる。家では優しく振る舞いたいが、考え方は変えられない。ついつい学校と同じように接してしまうことがあり、夫も子供も気を遣っていた。原因は自分にあるのだが、それがたまらなく嫌だった。
それだけに、授業でも予習、復習は欠かさず、熱心に話を聞いてくれる矢野浩介は、彼女が特別に目を掛けるのも自然なことだった。
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