第一章 夫の不貞
3月下旬、時刻は午前8時少し前、街路樹の桜が美しい東京駅日本橋口に到着した長距離夜行バスから、風間(かざま)弥生(やよい)は憔悴しきった顔で降りてきた。
昨晩、香川県高松市のJR四国高松駅から午後9時25分発のバスに乗り、10時間30分の長旅だったこともあるが、本当の理由は夫の裏切りだった。
結婚して16年、夫は43歳、弥生は39歳。これまで夫婦仲良くやってきたつもりだったのに、単身赴任先の高松に女がいた。
「そろそろ東京に戻れるんじゃないの?」
「人事のことだから、まだ分らない」
高松支店に転勤になって3年が過ぎていたので、春の人事異動で東京に転勤することを期待していたのだが、今年のお正月に帰ってきた夫の返事はそっけないものだった。
昨年の夏休み、中学1年の長男と小学校5年の長女を連れていった時は、夫も1週間の休暇を取り、四国各地をドライブ旅行して遊んだが、不審なことは何もなかった。
それが、昨日、夫の住む2DKのマンションの鍵を開けた時、プーンと匂う化粧品の香り、そして、「あなた、お帰りなさい」という女の声、一瞬部屋を間違えたのかと思ったが、出てきた女は弥生の顔を見るなり、「あ、す、すみません」と言うと、土下座して「ごめんなさい」と顔も上げずにひたすら謝り続ける。
料理の途中なのだろう、キッチンから鍋が焦げる臭いが漂ってきた。
「あなたは誰ですか?」
弥生は務めて冷静さを装い、ガスを止めて鍋を下ろしたが、女は先程と同じ、顔も上げずに「ごめんなさい」を繰り返すばかり。そこに、「ただいま」と夫が帰ってきたが、弥生の顔を見るなり、「あ、いや、い、今、説明するから」とオロオロ。その姿は結婚してから、いや、結婚する前からも、見せたことがないものだった。
怒りを通り越し、呆れた弥生がキッチンに腰を下ろすと、その隙に、「佳子(よしこ)、今日は帰りなさい」と、夫はその女を逃がす様に帰していた。
35歳前後、髪が長く、女優の井川遥に似ている女だった。
「へえ、佳子さんって言うんだ」と皮肉っぽく言うと、「あ、いや、今日はご飯を一緒に食べようって……おまえが疑うような仲じゃないよ」と取ってつけたようなウソを。
昨年の夏に来た時には、がらんとしていた六畳の和室には女物のタンスと鏡、化粧品が置かれているのを見れば、一緒に暮らしていることは一目瞭然だった。
それに、寝室として使っている奥の和室にはコンドームの箱が置いてあった。
「コンドーム……そうなんだ、疑うような仲じゃない、なるほど」
「あ、あれはお前が来た時のためだよ」
夫はコンドームが嫌いだった。避妊のため仕方なく使っていたが、単身赴任してからは、久し振りに体を交えるのに、それでは夫に申し訳ないと、弥生はピルを使っていた。
それなのに、口から出任せに、そんなことを言う。
かっとなった弥生は、「なら、抱いてよ。私だって3ケ月もしていないんだから!」と、着ていた物を脱ぎ捨て、その場に夫を押し倒した。
弥生はお尻を向けて夫に跨ると、顔に性器を押し当て、「舐めてよ、早く舐めてよ!」と叫び、それと同時に、夫のズボンとパンツを引き下ろして、ペニスにしゃぶりついた。
弥生はこれまで、そんなはしたないことはしたことがなかったが、いくら扱いてもペニスはだらんとしたままで勃起しなかった。
「ごめん。もう止めにしよう」
夫がそう言って、弥生の体を押し退けた時、悔しさと惨めさから涙が止まらず、脱いだものを身に付けると、弥生はマンションから飛び出した。
もう、こんなところにいたくない!
弥生はタクシーで高松駅に向かうと、出発間際だった東京行きの長距離夜行バスに飛び乗ったが、様々な感情が入り混じり、弥生は一睡もできなかった。
(子供たちに何て説明しようかしら……)
バスターミナル、降り注ぐ朝日は眩しく、「順にお渡ししますから、受け取りタグをご用意下さい」と手荷物係がせわしなく声を掛けている。
「受け取りタグは……はい、風間さん、これですね」
「ありがとうございます」
荷物を抱えた弥生はタクシーを捕まえると、気が重いまま、自宅のある江東区に向かった。
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