しかし、浩介が本当に弥生のお眼鏡に掛かったのは夏休みの自主研究だった。
夏休み前、弥生から職員室に呼ばれた浩介は「夏休みに竹取物語を読みなさい」と本を渡された。
「かぐや姫だから粗筋は知っているでしょう?」
「はい」
「でも、原本をちゃんと読む人は少ないのよ。夏休み中に読めるから頑張ってみなさい」
そう言って弥生が励ましてくれるものの、余計な宿題を出され、正直、「何で僕だけが?」と思ったが、考えてみると「〝冷血な媼〟が『竹取の媼』か」とおかしく、思わず、ニヤッと笑ってしまった。だが、弥生は見逃さず、「どうしたの?」と突いてきた。
「あ、いえ」と口ごもると、「分っているわよ。〝冷血な媼〟が『竹取の媼』を読ませるって、笑っているんでしょう?」と見抜かれている。
「へへ、ばれているのか」
「当たり前でしょう。これでも地獄耳なんだから。ふふふ」
周囲の教員たちは無関心を装っていたが、二人の会話を聞いてクスクス笑っている。浩介は逃げだしたくなったが、弥生はそんなことにお構い無く、「それから、この日でこの日、私、学校に来ているから、分からないところがあったら、いらっしゃい」と夏休みの出勤日をメモ書きしてくれた。しかし、これも「ありがた迷惑」。
夏休みに学校に来ることなど考えてもいなかったが、そんなものを受け取ったら、行かざるを得ない。一変で憂鬱になったが、指定された日に学校に行ってみると、そんな気持ちはすっ飛んでしまった。
弥生がきれいなのだ。いつもは“冷徹な媼”の言葉通り、スーツ姿で隙がないが、この日は小さな花柄をあしらったブラウスに白いフレアスカート。リップも瑞々しい赤。そして、なにより優しい顔をしている。
しかし、見とれていると、「どうしたの?」とやっぱり“冷徹な媼”に変わりなかった。だが、静かな教室で二人だけの勉強会は楽しい。様子を見にきた校長先生も「ほほう、頑張ってますな」と喜んでいた。
秋の文化祭ではその成果を発表したが、「よく出来ている」と国語科の教員たちは評価していたが、関心を持つ者はそれくらいだった。
だが、浩介はそれで満足だった。
そして、12月。厳しい期末試験が終わった日、「矢野君、ちょっと」と浩介は弥生から呼び止められた。要件は「後で図書室に来て」だった。
いつもは職員室なのに、何だろうと思いながら行くと、「はい、クリスマス・プレゼント」と、イチゴのショートケーキと紅茶を用意してくれていた。
「頑張ったからね」と微笑む弥生は、浩介にとって〝冷血な媼〟ではなく〝清少納言〟だった。
だが、夏休みと同じように「ねえ、『小倉百人一首』だけど、冬休みに訳してね」と宿題も忘れなかった。
一応、「えっ、全部?」と聞いてみたが、あっさり「そうよ」と言われてしまった。「無理ですよ」と言っても、「大丈夫。矢野君ならできる」と聞く耳持たず。だが、乗せられれば、やってしまうもの。
お正月が明け、「難しかった」と全訳ノートを提出した時の弥生は「やっぱり矢野君ね」と満天の笑顔だった。
こうして、二人は親しさを増していったが、浩介から見れば、やはり「先生」でしかなく、むしろ、弥生の方が好意を持っていた。その証拠にバレンタインチョコを渡すのに、「久し振りだから」と年甲斐もなく、顔を赤らめ、浩介を戸惑わせていた。
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